歴史の授業で使えるネタと裏話を紹介しています
| 関東大震災・その3 山下公園 当時わが国で唯一のシーサイド・パークである山下公園は、関東大震災で崩壊したガレキの山を処理し、再び災害があった時の避難所にもなる公園、という目的で国が中心となって大正14年6月、建設を始めた。約1qの海岸の護岸工事をまず行い、市内からガレキの山を馬車荷車を総動員して運び、約百万立方メートルのガレキや土砂を埋立てに使って昭和5年2月完成、同3年12月開園した。 公園の面積は、約7万4125u。海岸に面して東西約774m、イチョウ並木の海岸通りから約90m海に突き出た長方形の公園で、総工費は79万7千余円。建設当時、園内に張る芝生が不足し、富士山のすそ野の生芝を刈り取って使ったという。山下公園の完成は、横浜が大震災の崩壊から完全に立ち直ったあかしであった。 昭和10年3月26日から5月24日まで、山下公園を会場に復興記念横浜大博覧会が横浜市の主催、県と横浜商工会議所の後援で開かれている。全国の都道府県、各種団体の物産館、陸海軍の国防館、シルク館、海洋発展館、交通観光館、水族館など55団体が出品した。一番人気を集めたのは「生鯨館」で公園に面した海にイケスをつくり生きた鯨を放す計画だった。ところが、肝心の鯨がなかなか捕まらず、捕まえて入れてもすぐ死んでしまうといった始末で、ついに閉館。また、近代科学館のテレビジョン電話は、全国で初めてとあって人気をさらった。女優サイン会、マンガ家による似顔絵描き、マラソン大会などもあった。「有名婦人の横浜復興博を視察する会」というのもあり、深尾須磨子、金子しげり、山川菊栄、市川房枝、神近市子、村岡花子、林芙美子、吉屋信子、平林たい子、平塚らいてう、岡本かの子ら、そうそうたる顔ぶれの女史たちが参加した。期間中の総入場者数は322万人を数え、市民の寄付も集まり、約70万円の経費をかけた大博覧会だった。 今大戦後、広園内にはアメリカ軍の将校ハウスが立てられ、公園は全地域接収されたが、29年返還。公園中央の噴水池の“水の女神像”は横浜の姉妹都市アメリカのサンディエゴ市から贈られた。また、戦前の昭和12年、インド政府寄贈の水塔が現存している。 ※「赤い靴の少女の像」…完成は昭和54年11月 大正10年、作詞家・野口雨情がヨコハマの波止場を舞台にしそ作詞した童謡『赤い靴』(作曲・本居長世)のなかの少女像で、彫刻家・山本正道さんが製作。 |